• Saturday, April 12, 2025

    トバ地域におけるイスラムとジャウィ文字の遺産


    インドネシアにおけるイスラムの歴史は、書き言葉の発展と切っても切り離せない関係にあります。特に「アラビ・ジャウィ(アラビ・マレー文字)」として知られる文字体系は、イスラム教の知識や教義を伝える上で重要な役割を果たしてきました。口頭による伝承や説教と並び、書き言葉は知識を記録し、後世に残す手段として不可欠なものでした。

    このアラビ・ジャウィ文字は、アラビア文字をベースに、ジャワ語、スンダ語、マレー語など現地の言語の音に合わせて改良されたものです。アラビア語の経典や学術書を地域の言語で理解するために使われ、多くのウラマー(イスラム学者)やキヤイ(イスラム指導者)によって用いられました。

    スマトラ島の西岸にある古代港町、バルス(旧称:ファンスール)でも、このジャウィ文字が早期から使用されていた形跡があります。『トゥアンク・バダンの歴史』という年代記によると、バルス王国は南スマトラのミナンカバウ地方、タルサン出身のスルタン・イブラヒムシャーによって建国されました。彼は家族との対立をきっかけに北へ向かい、バトゥン・トルを経て、シリンドゥンやバカラの内陸地域に至りました。

    シリンドゥンでは、現地住民によってトバ=シリンドゥンの王として迎えられ、ミナンカバウにある「四人の族長制度」を模倣して行政制度を築きました。その後バカラに移り、現地の指導者の娘と結婚しました。この結婚から生まれた息子が、後に「シシンガマンガラジャ(سيسيڠامڠاراج)」初代として知られることになります。スルタン・イブラヒムはイスラム文化やアラビ・マレー文字を持ち込み、息子に継承させたと考えられています。

    特に注目すべきは、彼が持ち込んだとされるアラビ・マレー文字がバタック文字と共に使用された痕跡があることです。その最も明確な例は、**シシンガマンガラジャ(سيسيڠامڠاراج)**第12代の公式印章に見られます。この印章には、アラビ・マレー文字とバタック文字の両方が刻まれており、彼の政権において両文化が共存していたことを示しています。

    この事実は、バタック地域がイスラムの影響を完全に拒んでいたわけではなく、むしろ結婚や政治的交流を通じて、文化的に穏やかに融合していったことを示しています。アラビ・マレー文字は、現地の文化的アイデンティティを失うことなく、イスラムの価値観を広める象徴となったのです。

    アラビ・マレー文字の役割は宗教的知識の伝達にとどまらず、行政や統治にも用いられました。バタック文字と併用されたその証拠は、当時の地域王国が情報伝達と統治の手段として書き言葉を重視していたことを物語っています。

    このように、アラビ・マレー文字は単なる書記手段ではなく、イスラム文化と地域文化をつなぐ架け橋でもありました。**シシンガマンガラジャ(سيسيڠامڠاراج)**の印章文書は、イスラムが外来の要素としてではなく、地域社会の一部として自然に取り込まれていた証と言えるでしょう。

    残念ながら、このような貴重な書記文化遺産は、今日では十分に研究されておらず、注目もされていません。しかし、そこにはイスラムの知識、文化交流、地域の知恵が凝縮されています。この遺産を守るためには、古文書のデジタル化、教育カリキュラムへの導入、そして地域社会での再発見と活用が重要です。

    この取り組みによって、アラビ・マレー文字の栄光を取り戻し、それを民族史の正当な一部として位置付けることができます。この文字は単なる記号ではなく、過去の指導者たちの信仰、知恵、戦略を物語る証人なのです。スルタン・イブラヒムとその子孫の物語は、イスラムと地域文化が調和できることを示す象徴的な例です。


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